慰霊日

投稿番号[2076] 天気

お疲れさまです。

今日は慰霊の日です。
沖縄戦の司令官であった陸軍の牛島中将が自害し、指示系統が消失したということで組織的戦闘が終結したとされる日です。
情報が拡散することはなかったため、全島での散発的な抵抗や戦闘は9月頃まで続いたとされています。
組織的戦闘の集結日をもって、沖縄県の慰霊の日と定めています。

よくご存知のことと思いますが、沖縄戦は太平洋戦争の中の一地域の戦闘を言います。
硫黄島決戦やレイテ島海戦、本土空襲など、広大な地域で戦争が行われていました。
中国大陸や朝鮮半島、ヨーロッパ、ハワイ島、南太平洋、東南アジアなどなど。
第二次世界大戦という名称のうち、日本が関わったものが太平洋戦争です。
沖縄戦での特に激戦の期間は昭和20年3月23日〜6月23日頃を指しています。

アメリカ軍は昭和20年3月23日に沖縄本島や慶良間、他の琉球諸島への空爆を強化しました。
広範囲の空襲により、まさに焼け野原だったそうです。
米軍を上陸させるためにはできるだけ敵(日本)の勢力を衰えさせる必要がありました。
そのため、慶良間諸島や本島南部に激しい艦砲射撃を行ったそうです。

cc_2016_06_23_004
cc_2016_06_23_005

祖父の話では艦砲射撃の音は凄まじく、昼間のように明るかったそうです。
そして、防空壕の中でひたすら終わるのを待ち続けたそうです。
その頃には祖母や父らの兄弟は日本本土に疎開していたようです。
祖父は準戦闘員(男子のほとんど)として疎開は許されなかったそうです。
(本土疎開の裏話は最後に紹介するブログの内容が興味深いです)

空襲や艦砲射撃で使われた砲弾には粗悪なものも多く含まれ、爆発せずにそのまま残り続けたものも多くありました。
それらは現在でも見つかることがあり、不発弾として毎年処理されています。
不発弾処理にあたっては、半径100〜650mの範囲で避難指示が出ますので、ときどきそのお知らせが来ます。
手榴弾のような小型のものを含めると、今でも相当数の爆弾類が発見されています。

上陸した米軍と日本軍の戦闘は相当激しかったそうです。
戦闘員の日本兵と非戦闘員の沖縄住民、という構図を想像すると思いますが、実際には違いました。
司令部から、生きて捕虜の辱めを受けるぐらいなら潔く死んで国に奉公せよ、という旨の通達がされていました。
自決するか、自ら人間爆弾として戦車の1台でも損害しなさい、ということです。
ですから、本当に無力な高齢者や傷病人、子どもでも自決の道を選ぶ人がいたそうです。
サイパン島のバンザイクリフでの悲劇も同じものです。

米軍は防空壕や自然壕、墓などに隠れる軍人、民間人を警戒していました。
警告して投降しない時は容赦なく火炎放射器を浴びせたました。

cc_2016_06_23_006
cc_2016_06_23_007

生きながらに焼き殺された人たちを思うと激しく胸が痛みます。
祖父が読谷村の自然壕に避難していた時、近くの集落を火炎放射器で焼きつくす米軍を目撃して、「ここで死ぬんだ」と諦めたそうです。
ただ、米軍は集落から遠ざかっていったので、祖父のいた自然壕は見つからずにすんだそうです。
同じ壕で避難していた人が「ここは嫌だ」と言って飛び出していき、戦後も消息は不明のままだそうです。

支那事変以降の度重なる紛争、戦争ため、沖縄でも男子の徴兵が行われ、沖縄戦開戦時は戦力になる男子が少なかったそうです。
本来は非戦闘員の沖縄住民ですが、日本軍は全島民が一丸となって米軍に立ち向かうことを求めました。
ということは、米軍からすれば沖縄住民は非戦闘員ではなく、準戦闘員であったわけです。
戦闘員(準戦闘員を含む)である以上、沖縄住民も攻撃の対象になりました。
準戦闘員とされた住民+非戦闘員の住民のうち、約94,000名が犠牲になりました。
現地徴兵されて従軍させられた住民(軍属)のうち、約29,000名が犠牲になりました。
当時の県人口約490,000人で、約123,000名が戦死したことになります。

県人口の4分の1以上の人が戦死した都道府県は他にありますでしょうか。

ISILやイスラム過激派のニュースでときどき耳にする“少年兵”。
本土でも若い方が徴兵されたり、知覧特攻隊などで若者の犠牲の話が出てきます。
沖縄でも少年兵の徴兵があり、学徒隊と呼ばれたそうです。
有名なところでは、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成されたひめゆり学徒隊があります。
沖縄戦では14歳以上の学生を鉄血勤皇隊として徴兵し、“正規軍”として従軍させました。
約1780名の青少年少女が徴兵され、約半数が戦死したそうです。

cc_2016_06_23_009

14歳で銃をもって戦った生徒たちの思いを想像することができません。
私の父はまだ国民学校低学年だったので徴兵はされませんでした。
ただ、当時は軍管轄であった那覇飛行場にほぼ毎日行き、草を積み上げて偽物のゼロ戦を作る作業をしたそうです。
また、滑走路そばでサツマイモを栽培し、これを日本軍に届けていたそうです。
戦闘員ではありませんが、小学生も軍に協力して作業をしていたということです。

cc_2016_06_23_008

捕虜になった学徒隊2名の写真。
見た目で中学生ぐらいに見えますね。
米兵を前にして凛々しく立っている姿に胸が締め付けられる思いです。
私の伯母は白ゆり学徒隊として出陣しましたが、幸い犠牲にならずに終戦を迎えました。
もう一人の伯父(当時19歳)は徴兵されて硫黄島で戦死したらしいのですが、実際にはどこで亡くなったか分からないそうです。
戦中のことでしたが、戦死の電報とともに“硫黄島のもの”とされる石が形見として1個届いたそうです。

多くの人が犠牲になった沖縄戦は、終戦から71年になります。
糸満市摩文仁には戦没者を慰霊する施設が数多くあります。
その中の一つが平和記念公園内にある平和の礎です。
ここには戦没者の氏名が書かれた記念碑があり、これまでに24万人の名前が刻まれています。

cc_2016_06_23_002

[設立趣旨] 沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設する。

cc_2016_06_23_003

宮古八重山地方や他の離島、集団疎開船などの戦争犠牲者を含めると約15万人以上の沖縄県民が犠牲になった沖縄戦から71年。
今日は平和を祈念し、先の大戦で犠牲になったすべての人々を弔う日です。
正午には全県で慰霊の鐘が鳴らされます。
心を込めて黙祷を捧げたいと思います。
.
.
.
こちらのブログ記事もとても興味深い内容です
↓↓↓
沖縄戦①  沖縄戦②

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA